ほおずきれいこの骨髄ブログ・2nd season

ドナー登録から骨髄提供までの体験を綴った主婦ブログ。一人でも多くの患者さんの命が救われますように。

100日間にわたって書いてきた【骨髄ドナー体験記】が迷走しながらもついに完成!

「骨髄ドナー体験記」が完成するまでに、数々の「迷い」と「決断」があった。


  私は、あまり迷うほうではないので、迷う時間は少ない。時間的には少ないが決断の裏にはいつも迷いがある。決断を正当化するために迷いは必要だ。失敗しても迷った末の決断なら後悔はない。自分が考えて決断したことなのだから。


 私は、去年、知らない人のために自分の骨髄を提供した。
身内や友人のためになるのならドナーになってもいい、と考えるのが普通だ。
私もそうだった。身内が白血病になり、これから骨髄ドナーを探すといったときになって、はじめて骨髄バンクに興味をもったのだ。

 それまでは、知らない人のために自分の骨髄を手術で採取するという、
そんな、リスクばかりで1円の得にもならないことをしようなんて、
考えたこともなかった。

 それがなぜ、ドナーとなり、ここでブログを書くことになったのか、
綴っていこうと思う。

 

1、初めて献血ルームに行ってみるという決断

 義弟(妹の旦那さん)の白血病が再発した。これから骨髄ドナーを探すというのだ。骨髄バンクの知識がほとんどなかった私は、献血のときに、ドナー登録できると聞き、献血ルームに足を運んだ。献血ルームというところに行ったことがなかったので、
よし!いくぞ!と決断したのが、この一連の物語の最初の決断となったのである。

 今から考えると、骨髄バンクのホームページには、たくさんの情報が掲載されており、読めばだいたいのことがわかるようになっている。しかし、私は思い立ったらすぐ行動するので、とにかく献血ルームだ! と思って、わからないことを聞きにいくつもりで行った。なにもわからないままで。

 献血ルームにも興味があった。献血バスでの献血しか経験がなかったからだ。21年ぶりの献血だった。

 

2、ドナー登録をするという決断

 献血ルームに行くと、ちょうど骨髄バンクの説明員の方がおられた。その方は、息子さんを白血病で亡くしたという。人間の白血球には数万通りの型があってそれが一致していないと、骨髄移植は成功しない。ドナー登録すれば、血液型のように自分の型がわかるのであれば、ドナー登録する価値はあると思った。自分の白血球の型は義弟に提供できる型なのか知りたいと思ったのだ。

 しかし、それは叶わぬことであった。自分の型は知らされないのである。

 義弟のドナー探しは始まっていた。私がドナー登録をすれば、一致した場合は検索にあがってくるはず。しかし、赤の他人であるほかの患者さんと一致する場合もあるかもしれない。そうなったとき、私はよろこんで提供できるのだろうか。説明員さんの話を聞いて、ドナーに選ばれたら、何度も病院に行かなければならないことや、いろいろ大変なことがあることを聞いた。手術が怖くて、いろいろと質問しまくった。けっこう長い間、悩んでいたと思う。

迷った末、私は「ドナー登録をする」という決断をくだした。
 赤の他人の命と、義弟の命、違いはない。という結論が出たのである。

 この時点で、すでに私は、適合通知が来たら、応じる覚悟を決めていた。

3、適合通知に返事をするという決断

 ドナー登録をして数カ月後、骨髄バンクから「適合通知」がきた。なんとも早いおでましだ。「適合通知」がきたら、1週間以内に、提供の意思があるかないかを返信しなければならない。病歴など、書かなければならない事項がたくさんあった。
 紫外線アレルギーのことや頻繁に出るじんましんのことなどを書いて返信した。
 返信してすぐ、骨髄バンク事務局から電話があった。ドナーに選定されたら、塗り薬も使えなくなりますが、コーディネートをすすめてよろしいですか、と。


 私は、一瞬、迷った。痒みは薬を使わずに我慢できるだろうか?痒いぐらい、我慢するべきでは?

 患者さんが、死ぬか生きるかのときに、痒いぐらい我慢できるはず。それぐらいのこと、白血病の苦しみにくらべたら、バカみたいに小っちゃいこと。

コーディネートをすすめてください、と私は言った。

4、最終同意書に署名・捺印するという決断

 確認検査を経て、私はドナーに選定された。選定されたということは、患者さんにとって一番最適なたったひとりのドナーに選ばれたということである。ドナーに選定されると、家族と第三者の立会人の同席のもと、最終同意面談が行われる。

最終同意書に署名・捺印後は同意の撤回はできない。

患者さんは骨髄移植の準備に入る。自分の不注意で健康上の問題が生じて移植ができなくなれば、患者さんの生死にかかわる。覚悟して、署名・捺印をした。

 そして、私はなんとか手術まで健康を維持し、無事に骨髄提供を終えた。

5、ブログを始めるという決断

 骨髄提供を終えて、術後健診も終わり、体調も元通りになると、この貴重な体験を記憶が新しいうちに書いておかねばならないと思うようになった。できれば本にして、たくさんの人に読んでほしいなどと考えてしまった。どこに、どうやって書いていくかを考えていたとき、俳優の木下ほうかさんが書いた本「ぼくが骨髄提供をした理由」を読んだ。

 その本には、木下ほうかさんがブログで骨髄提供の体験を綴っていたことが書かれていた。そのとき、初めて「ブログ」がどういうものであるかを知った。

 ブログという情報発信ツールの研究がはじまった。どうやら、ブログで一儲けすることもできるらしいというのも知った。無料ブログ、有料ブログ、いろいろありすぎる。

毎日ちょっとずつ調べては、迷い、悩んだ。

ブログを始めるぞ!と決断したきっかけは、池江璃花子選手の白血病公表だった。そして私は「はてなブログ」で人生で初のブログを始めたのである。

 

6、ドナー体験を書くより楽しくなってしまった脳内のアウトプット記事をどうするかにたいしての決断

 初めは、クソ真面目に、お上品に、ドナー体験を綴っていたが、人のブログを読んでいるうちに、自由に好きなことを書くことに憧れてしまった。書かずにいられないこともあった。骨髄関係以外の記事を書きはじめると、それがだんだん楽しくなってきた。そのころ、骨髄ドナー体験記は1日おきの公開になっていた。

 1日1記事と決めて書いていたが、だんだん無理が生じてきた。骨髄関係以外の記事のストックが増えて、渋滞をおこしていたのだ。しかし、それを出し過ぎると、骨髄ブログが骨髄ブログでなくなってしまう。

 私は考えた。迷った。ドナー体験を読みにきている読者もいる。ドナー体験を書くためにはじめたブログに、私の脳内に泉のように湧きあがるどうでもいいことを書いてしまうと、本末転倒な結果になるのではないか。ドナー体験だけはなんとしても、書きあげなければならない。

 私は、2日に1回は骨髄ネタを書くという条件をつけて、規制緩和にふみきった。1日3記事までは許すことにしたのだ。

 それから、【裏の声シリーズ】というのをつくり、あまり大きな声で言えないことを書くときにこれを利用することにした。今は【裏の声シリーズ】は早朝の公開にしている。朝から、こんなもん読みたくないわ、という人にはここでお詫び申し上げます。ごめんなさい。

 

7、ブログを続けるか否かという迷い

  骨髄ドナー体験記が完成した今、ブログを続けるかどうかは迷いどころである。


 ブログも無料版を使っているので、正直なところいつやめてもいい状態にはなっている。ただ、幸いなことに、下書きがまだまだある。そして日々、増殖している。


ブログをやめるという決断はまだまだ先になりそうだ。