(ネタバレありですので、これから読もうと思っている人はスルーしてください)
「悼む人」を読んだ。
映画化もされている
静人(しずと)の後を勝手に付いてきていた倖世(ゆきよ)。
倖世が殺した夫、朔也(さくや)の亡霊とともに。
刑務所から出てきて、はじめは行くところがなくて、死んだ人を悼むために旅している静人に興味を持ち、ついていった。
静人は一年以上家に帰っていないので、母が癌で余命短いことを知らない。妹が別れた彼氏の子を妊娠し、ひとりで育てることを知らない。
生きることと死ぬこと。これから生まれる命と消え行く命。実家では同時進行。血をわけた肉親の苦しみも知らずに、見ず知らずの人を悼むために旅する静人。
知り合いでもない人が死んだ場所を訪ねて、その人が生きていたことを胸に刻む、それが彼の「悼む」行為。
他人の死を悼みながら、生と向き合っている。自分の命を無駄にはしない。
静人が倖世を抱いたとき正直、驚いた。抱いたあと、それまでいっしょに旅をしていたふたりは別々に悼む旅へ。静人は、倖世が妊娠してしまったときのことを考えて実家の連絡先を倖世に渡した。すごく現実的だ。読者に心配の種を蒔いたままにしておかないところが、作者のこの作品の生と死にとことん真面目にとりくんだことをうかがいしることができる。
印象に残った言葉は、
「執着を放すことも……愛」倖世の言葉。
母親が静人の「悼む旅」を受け入れたのも愛なのだ。
倖世が静人との旅を終え、一人で旅することを決めたのも愛。
「愛など所詮執着」朔也の言葉。
そうかも知れない、と思った。執着を愛と呼ぶ人もいるだろう。執着は愛と勘違いしやすい。
だけど、本当の愛は執着ではない。執着するのではなく愛を与えるのが愛。
子供がよろこぶ顔がみたいから喜ばすのは執着。
子供をよろこばせたい、それが愛。
映画ではどう表現したのだろう。映画もみてみたくなった。
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